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声の震えの感触 
 
物事には始まりがあり、終わりがある。展覧会会場の1階に展示されていた渡邉ひろ子の映像作品《唄日記 2016年3月》の「始まり」に映るのは、新幹線が出発する駅の赤茶色の壁である。しかしその後は、東京から彼女の実家がある新潟へ向かう新幹線の窓越しに流れゆく外の風景が、1時間20分という非常に長い1ショットで映されている。その映像に重なる音声として聞こえるのは、渡邉の亡き祖母が民謡や歌謡曲を歌って吹き込んだカセットテープの再生による、祖母の歌声に、渡邉が寄り添うように歌った声が重なったものである。風景も歌も、始まりや終わりという定点においてではなく、時間の中で流れゆく状態で捉えられている。そして車窓越しの風景を作家自身が寄り添うような視線で見ているように、そこでは一つの歌声が、もう一つの歌声に寄り添っている。寄り添うような感覚を喚起するのは、何も《唄日記》だけではない。
2階奥の壁面に投影されていた、渡邉の「signature style」とも言える氷の彫刻を用いた映像作品《おじゃまします》は、祖母の口癖であった「おじゃまします すみません」という文字を象った氷が、徐々に溶けてゆくさまを見せている。物質としての氷は、外部の温度の作用によって、個体から液体、そして気体へと、少しずつ姿を変える。固定的な形状や意味を瞬間的に把握するのではなく、氷=言葉が溶けてゆくことに、その運動が伴う時間において寄り添うような作家のまなざしを、観客は追体験するだろう。映像の始まりには文字が物体として見え、終わりには見えないが、作品が扱っているのは、むしろその間に流れゆく時間である。
一般に、生と死は、まったく違った状態を指すように思われるが、実際は両者は無限の時間でなだらかに架橋されている(ボルヘスが直線、さらには有限な線分に迷宮を見たように)。物質として見ても、死は定点として訪れるのではなく、私たちの生きている身体は常に、死に向かって少しずつ溶けつづけている。その意味で生と死もまた、《唄日記》の歌声のように、交わり離れては共振する、2本の線のようなものかもしれない。
渡邉の歌声は、亡き祖母の歌声に倣いながらも、それと過度に同一化しようとするわけでも、それから過度に差異化しようとするわけでもない。二つの歌声は、精神的に近く、ゆえに遠い存在であると渡邉が語る、微妙な「隣人」同士によるものである。
祖母のカセットテープは、家族の固有名に宛てて残されていたという。それはおそらく祖母の、「隣人」へのコミュニケーションの作法でもあった。
《唄日記》の「終わり」において、新幹線が到着する駅の風景は、輪郭をぼんやりとさせ消えてゆく。それは、《おじゃまします》で、畳の上に置かれた氷の文字が溶けてゆくさまを思い出させる。「おじゃまします すみません」。隣人の「畳」へと入るとき、そこには一種の「訪問の心得」がある。車窓を流れる風景が震えて見え、二つの歌声の重なりが震えて聞こえるように、祖母の作法をアプロプリエートし、「おじゃまします すみません」と告げる「私」の声もまた、微かに震えて響くだろう。思うにその震えの感触こそ、渡邉の作品が、隣人への関わりの倫理として問うているものである。

 櫻井拓(編集者)