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2023年11月12日(日)
「眺める」
 
先日、地元の新潟県来迎寺駅からJR信越線という在来線に乗って、柏崎のひとつ先の青海川駅というところまで行ってきた。理由はなんとなく、衝動的に海が見たくなったから、という海に行く為の最適な理由と、ふらりと知らない人に会えるかもしれないという期待めいたものがあったからだった。突然の「そんなような気がした!」を動力に突発的に飛び乗ったのはワンマン運転という名の通りの運転手さんがひとりで運行する電車で、わたしがまだ地元にいた頃は信越線にも車掌さんが乗車していて順繰り切符を切りながら車両の両端を往復する姿が日常だったのに、人件費削減のためなのか、どうなのか。そういえば地元の駅もいつの間にか無人駅になっていた。ボックス席には、70代ほどの女性が座っていて、ここ良いですか?と向かいの席を示しながら小さな声で尋ねると、その女性はマスクで半分隠れた顔を縦に振って微笑んでくれた。目尻に垂れた皺の形がやさしい。どてっと無駄に重い荷物をおろして座り、帰りの時刻をアプリで調べる。その日は昼過ぎには長岡方面へ戻り、在来線を乗り継いで東京に帰る予定だったので、海を見ると言っても滞在時間はほんの僅かなことになっていた。青海川駅は日本海で最も海に近い駅と言われているらしいので、せっかちに海を摂取したい輩にはちょうど良い場所かもしれない。ごとんごとんと口ずさむように揺れる電車が今では懐かしい。目の前の女性も地面の高低や線路のわずかなカーブに合わせて揺れていた。同じようにひとりの人を見つけると、つい話しかけておしゃべりを始めたくなってしまう。同じ日、同じ時間、同じ場所にたまたま居合わせるという砂粒のような奇跡が跳ね返って、不思議と気持ちが大きく照らされて、外の方へと働きかけてみたくなるのだ。「今日はあいにくの曇り空ですね。どちらへ行かれるのですか?」と、声にするより先に頭の中で呟きながらその女性の方を見やると、その方はうとうとと気持ちよさそうにしていたので、わたしは窓の外に流れる風景をひたすらなぞっていった。青海川駅に到着すると、降りる人はやはりわたし以外にいなかった。左手には民家がぽつんぽつんとちいさくまばらに並び、右手に見えるのは視界いっぱいに広がる荒波の日本海だ。この日のような薄暗い曇天とうねるように重たく波打つ塩水は、新潟の海のお決まりのツーショットで、コブシの効いた風格をここぞとばかりに発揮した演歌調のメロディが脳内で勝手に再生しだし、イメージとしての日本海を忠実に再現していた。わたしも思わず右手の拳を握りしめる。初めて海を見た時はいつだったんだろう、とふと考える。 最初の時のことを思い出すことはもうできないけれど、記憶の中の海はいつだって灰色の空の中にぽっかりと浮かんでいた気がする。広いとか深いとか果てしないとか、そういった言葉を覚える前の、すでに身体が知っている恐怖がありありと押し寄せてきて、自らの輪郭を失うまいと必死に体をこわばらせていたのだろうか、母の腕の中で。寄せては引いて、止むことなく運動し続ける波の永続性に、この世の理から逃れられないような得体の知れない不安を感じていたのだろうか。その場を包み込むような壮大な存在感に、優しさと逞しさのようなものを感じ、目を爛々と輝かせていたのだろうか。いずれにせよ、初めて見た時のような気持ちで海を眺めることはもうできないだろう。はじめて見た時の気持ち。初めての風景に立ち合った時の、皮膚の下から未知の層がじんわり隆起してくるあの「感じ」。四谷の交差点の信号機や街灯が、夜の中で濡れるように一斉に光り輝く道を見つけた時の真新しい気持ち、新しく越してきた街の並木道を最初に見た、風が通るような鮮やかな気持ち。そういった、その時その瞬間でしか現れなかった気持ちを寄せ集めたものの総量が人生の重みと言えるのならば、自分はたくさんの風景と色とりどりの気持ちに出会って、人生というものをもっともっと重いものにしてみたいと思う。実際に、素敵だなと思う人は大抵たくさんの風景を自分の中に携えているように思う。もちろん、自分にとってのとっておきをわずかに手に握りしめている人も硬質な宝石のようでいて素敵だ。自分はといえば、腰が重かったり、なかなか戸惑ったり立ち止まってしまう性格なわけなので、生涯出会える風景というのは多分、結構限られている。だから別の誰かの風景を想像してみることにする。人が目にした風景を想像することも立派な風景の立ち会いなのだ。人が小説や詩を読んだり、映画や絵画を鑑賞したりすることも、誰かの持つ風景の質感を手に取って確かめたり、自分の風景に重ねてみたいとどこかで感じているからかもしれない 。誰かの中にある風景が自分の中にある風景を映す鏡となれば、その写し合いによって、万華鏡のようにさまざまに響きあい、奥行きが生まれ、今よりずっと深い場所が自分の心にもあったのだと気づくことができる。同時に、相手の中にも手の届かない場所が、こんなところにもあるのだということを知ることができる。気がつけば隣駅である笠原駅の海岸沿いまで歩いていた。田舎の一駅分は、色々とああだこうだと想いを巡らせるには充分な距離だった。首から引っ提げていたカメラではほとんど何も撮らなかった。駅にほど近い民家を改装したカフェであたたかいコーヒーをテイクアウトし、長岡行きの電車に飛び乗る。またしても電車に乗り込むのはわたしだけなので、この世界には自分ひとりきりしかいないのでは?と一瞬心細くなったのだが、車内には行きの電車よりもまんべんなく人で溢れていた。どさっと無駄に重い荷物をボックス席に下ろし、腰をかけると、向かいの席の女性がわたしの顔をじいっと見つめている。なんだろうと見つめ返すと、目尻の優しい形をした今朝のボックス席の女性が今朝と同じように座り、丸い目をしてこちらをみている。2時間前あった残像がくっきりとその場に立ち現れてきた。「あら、今朝の!」とその女性は先に反応してくれて、「びっくりですね」とわたしも答える。もう一度出会ってしまうというほんのわずかな奇跡が静かに熱を帯びてこの場に漂っているのがわかり、わたしたちは少しの沈黙の後「こんなことってあるのね」と微笑み合うのであった。時間的にもその方は終点の直江津駅に到着した1時間後の電車で長岡駅行きの電車に乗って戻って来たに違いなかった。行って、またすぐに戻ってくるという、一見意味の無いとも見える自分の行動を少し恥じているのか、「こうして窓からの景色を見ているだけで楽しいのよ?」と視線を窓の外に向けながら自ら話してくれた。「わかりますよ」「わかる?見たい景色や行きたいとことがまだまだたくさんあるの。」「うんうん、わかります、わたしもそう思います」「大きなカメラをお待ちで。お仕事で?」「いや、仕事というか、個人的に調べ物をしたりしていて。地元は来迎寺の方で、これから東京に戻るんです。普段は別に仕事をしていて、こうしてたまに戻ってきたりしていて。」「そうなの、お仕事以外でご自身でやりたいことが色々あるのね」「そうですね。人生でどれくらい自分の好きなことをやれるかなぁって」「そう、まだ若いのに、わたしと同じなのね、」「そうです、年齢なんて関係ないです。同じですよ~」そんなたわいもない会話がなんだか嬉しかった。こうして人と不意に出会ったりすることは、砂つぶだったものが石ころに変身することのように、ささやかな奇跡を生むことなのだ。女性はわたしと話をしながらも、時折窓の外に視線を向け、新潟の稲刈りを終えた、まだ雪が降りる前の起伏のない風景を眺めている。わたしはその姿を、一つの風景を眺めるような気持ちで見つめていた。
 
 
 
 


 
 


 


 
「新しい人」
 
「新しい人」
という言葉が今、確かに私の喉の震えと共に、確かな音を持って唇からこぼれた。夕陽が都会のビル街を橙色に染めはじめる時間帯だった。私は自分の唐突に放たれた声にハッとして立ち止まり、新しい人とはなんのことだろう?と、他人事のようにその状況を思った。数秒前まで歩きながら考えていたことの中に「新しい人」にまつわることは恐らくひとつもなかったし、そもそも自分が何を考えていたかということを明確に思いだすことはできなかった。輪郭のないイメージの数々がうろこ雲のように浮かんでは消え、消えては浮かぶなどといった状態が頭の中をもやもやと満たし、そこから何か一語を取り出して言葉を紡ぎ、声にする、というような一連の流れを遂行するということは、今においては強い意志が必要なことにも思われた。それほどに私は今「ただ歩く」ことの中に居て、目に写るさまざまなものを通り過ぎていたのだった。そうした中で不意をついて出た「新しい人」は、いっそう異様なものに思えた。よく知る言葉であるにも関わらず、ではそれが一体何を現しているのかとぼんやりした頭で考えはじめると、現時点ではそれが示すものは何ひとつないように感じられ、動きかけた思考はすぐさまばらばらにばらけてしまうのだった。私は記憶をたぐりよせることのできないやりきれなさに、身体の中の空気が少しずつ重たくなっていくのを感じて冷たい空気をひとつ大きく吸い込んでみた。懐かしい冷気が肺をつたって降りていくのをなぞるかのように視線をゆっくりと足元の方へ降ろしていくと、地面にはこの時刻特有の長い影がいくつも現れていた。帰宅中の会社員や交通整備の警察官いくつもの種類の植わった花と樹やリードに繋がれた散歩中の犬と信号機にガードレール、お店に掲げられた看板などの何もかもはそれぞれの属性や機能を取り払い、一斉に光を浴びることでもうひとつの姿を現し、私たちの足元にひっそりと息づいていたのだ。等しく光に照らされるという点で公平であるからなのか、地の世界では全てものたちが堂々たる態度で優雅に、同じような速度の中を生きているかのようだった。なんという理想世界! ジェンダーや障害、民族、宗教、職業、地域などのあらゆる社会的少数者とされてしまう人びとがそれぞれの場所で圧倒的非対称な立場の中にあるということは、日々のニュースや自分の目に見えるわずかな範囲でもわかることだった。どの国のどの地域で生まれたのか、どういった家庭に生まれどんな人に育てられてきたのか、どの性別で生まれ、どの性別を割り当てられたかによって、ある人はある人らに「少数者」としてカテゴライズされ、社会的な不平等を被ること、奪われる側としての構造に組み込まれてしまい逃れることができないということ、また、自分が「多数者」としての生を生きていると思っていても、ある日突然の大きな力の作用によって、いとも簡単に支配される側へと転倒してしまう、それはもう今もどこか遠くの国で続く戦争のように…、なんていうことは、進行形の世界でも過去の無謀な歴史を見てもわかる紛れもない事実なのであり、悲しいことにこれからも起こる未来のことでもあった。私の知らない人びと、私の知り得ない人びとは、どのような感情の中を生きていて、生きてきたのだろうと、ふと思う。以前知り合いの人との会話の中で、生理の時に一つのナプキンでさえも買えないくらいの貧困を生きている若い女の子たちが今の日本でもいるらしいよ、と言った私の言葉に対して、嘘だ流石にそこまではないでしょと、さもそんな人間いるわけないというような口振りで言われたことをたまに思い出す。その時はすごく腹が立ったのだけど、それは暖かい場所で暖かいご飯を食べれているということなのだから、幸せなことなのかもしれない、知らないでいられることはその暖かさの中に丸ごと包まれているということ。でも、知らないということは自分にとってどういうことなのかということをやっぱり考え込んでしまう。背中をぎゅっと丸めてうずくまり、声にならない声を自身の身体の奥へと押し込め続ける人のことを想像してしまう。私の知らない不自由を生きる人びとのことをどうやったら知ることができるのだろう、とまるで自分がいいものであるかのように思ったりしたけれど、そう感じること自体に既に潜んでいる特権や優位な立場がなんだかすごく嫌になる。知っていくことの覚悟もないくせに、すごく嫌になる。私が向ける視線は一方的に嫌らしく進むだけで、交わることなく粉々に散っていくのだ。でもやっぱり「いる」ものが「いない」「ある」ものが「ない」とされていくことは涙がでるほど耐え難いことだ、「知らない」ということも……とそんなことを逡巡していると背後から突然何かに呼ばれたような気配がして、振り向くと橙色の西陽があまりにも眩しく差してくるので、まぶたをぎゅっと音がするくらいに強くつむった。陽は黄色く色づいた銀杏並木の葉一枚一枚に照り返されて、何千何万というような光り方で辺りの景色を揺らしていた。黄色が金色へとゆっくりと移り、燃えあがる様は、せかいじゅうの、どこにもすくい取られなかった小さな光すベてがこの場所に集められたかのような、そんなような意味のあるひかり方で、一秒一秒がくっきりと脈打ち、鮮やかにこの場所に焼き付けられてゆくかのようだった。まるで今になって初めて産まれたかのような真新しい気持ちで大きく目を見開き、そして薄めてみると、ひたひたに溢れそうな光は寄せては返す波のように静かに波打ち、目に映るさまざまな色や形を引き連れてゆっくりと遠ざかってゆくのだった。私は世界をじっと見張ったが、こちら側を見つめ返す輪郭は何一つなかった。一人だった。死ぬ瞬間もこの場所に一人で立っていて、この光景を何層もある光の記憶の中からそっと取り出し、宝物のような大きな気持ちで眺めるのだ、と自分でも驚くほど冷静な頭でいつかのその瞬間を思った。それから身体の暖かさを思い出すかのように、ゆっくりと息をはいた。空気がわずかに揺れているのがわかった。都会の充分とは言えない空の広さの中に陽が落ちていく様を見ていると、自分もその広さの外側へ広がっていきたいという想いが星屑のようにまたたき、その想いはなぜだかいつも見る夢のことを思い起こさせるのだった。眠りの中の、過去も未来も前後のつながりもない場所を、一体自分が誰の身体を生きているのかわからないにも関わらず、嬉しいとか楽しいとか寂しいとか苦しいとか悔しいとか腹立つわとか好きだなぁとかもう会えないねとかどこにいたのとか久しぶりだねとかありがとうとか頑張ってるなぁとかうまくできて幸せだとか間に合わなすぎてどうしようとかお腹が空きすぎて何もできないとか何もしないで寝ていたいとかこの感動はもう言葉で言い表せないとか怖くて動けないとか間違えている気がするとか傷ついている気がするとか傷つけている気がするとかわかる気がするとか全然わからないなとか申し訳ないなとかありがたいなとか、そういった数えきれないほどのあらゆる感情が、それ自体で鮮やかに明滅して浮かんでいる途方もない数の光の世界のことを想った。その瞬間、はたと「新しい人」を思い出した。私は穏やかな気持ちで新しい人の再来を受け、今度はしっかりと発語してみようと文字の形象、留め、跳ね、払いの細部まで一つ一つ頭に浮かべながら丁寧に声に出してみるのだった。一つじゃまだ足りないような気がしたのでもう一度、まるで言霊というものを信じる者が何かを大きなところへ明け渡すかのような調子で、空に向かって高らかに発語した。「新しい人」影も翳りもない艶やかな言葉は柔らかな風となり、冬の空気を伝って薄くのびては消えていった。辺りはすっかり夜の薄闇に包まれて、家路につくいくつもの人びとが私の肩を追い越し、駅の灯りの方へと吸い込まれていった。次第に、聞き覚えのない声や身に覚えのない目鼻立ち、それらを運ぶ身体が、ぼうっと目の先に浮かび上がってくるのが分かった。わたしは目をこすり、ゆっくりと一呼吸置いて、新しい人として、または懐かしいものとして、新たに出会い、そして出会い直しにいくのだった。
 
 
 


 

 

 


 
 
2022年10月27日(木)
「」
 
 
自分が作るものが何を表そうとしているかがわからない時間は結構苦しいのだけど(そのわからなさを楽しめるひとでありたい)時間を経て、心に余裕が生まれた時にふっとわかる時があって、その瞬間にはこの上ない喜びがあって、なんだかもう、この為に。水平的なイメージを描きたいと、今に思えば、そんなことをずっと考えていたような気がする。ものの価値が均一になるフラットな地平に素手で触れていくような、そんな経験ができるのだろうか。すぐに忘れちゃうのでとりあえず、ここにめも。今のうた、を見つけることができるのだろうか。
 
 


2022年6月11日(土)
「海辺にて」
 
 
黒のモノが横を過ぎゆく気配感じて、わたしはしんとした白のモノで、撃たれる想いが夕映に乾いてゆく。去った。過ぎ去った。したたる汗を手のひらに集めて窪地をつくると、ここが安息の水辺かもしれません、と天にあずけるようにかかげた、手の皺に、金色が溜まっている。夕陽が、水鳥が、遠くの子が、すっぽり地球におさまる時分だ。消失点、取れない。全てが同時にきらめいて。
 
 


2022年5月14日(土)
「盲目の歌 1」
 
 
少女は優しい耳の器となって遠くから放たれてくるものを静かに受けとめる瞬間を待っているのでした。器はかぎりなく能動にちかい受動であるために、その塩梅をうまく見極め全神経を集中させてみる。と、言っても少女は優しい、を体現するような想像は持ち合わせてはいなかったので、今朝に見たそこらの地面に這うタンポポの天使のようなほわほわを強くイメージして、その柔(や)っこい繊維の束を自分のはだ色ひとつひとつの断面に植え込んでみるのでした。種子がぱらけて血中のすみずみに雪崩れこんでいく音は、少女の目の前に広がる夕陽が空を裂いて山間に落ちていく気高い音と同じようなものに思えました。イメージすることそれ自体がいつも見る夢のかたちと似ているようで、少女はここが一体いつのどこなのか曖昧になって何がなんだかわからない。私は一体なんですか、と唱えてみることが今ここの着地で、白く細い指の関節を何度も柔く折り曲げ、ちいさな身体は淡く金色に燃えているのでした。ただなんとなく、少女の奥の底にある遠吠えの感覚が、歌、なるものを探しているいうことだけはずっと明白であるようでした。その予感が自分に残された最後の魅力であるということにも。見つけたい、の反面には見つけられたい、の欲望が同じ分量でべったりとくっついているので彼女は歌に見つけられたい。どこか控えめで陰気を背負った少女が彼女のあらゆる先端をほんの少し光らせた瞬間、世界もまた少し発光した。
 
 


2022年4月19日(火)
「夜の遊泳」
 
 
魚のうろこのように光る路面を昨日と同じ毎日で滑りつづける。瞳に入りきらない光の粒、光の束、光の線の数々を集めてひとしきり縫い合わせてみると、昨日と明日が上手に繋がって安心する。夜をまたいだ水槽のように気だるさを引きずった、赤坂。
 
あかさか、と唱えてみれば下っていく音にほだされて、光の下層の方へと消えてゆく人びと。大きな顔の男が歩いてる、気配を消そうと女もしずしず歩いてる。無愛想のたわむれ、転がる饒舌、交わらない視線の欠片が不規則な夜のリズムを生んでいる。
 
溶け込むことのできない強い輪郭でなだらかに通過、すれば横断歩道が水平を指し示す。信号の赤い点滅がようやくわたしを駆動させる。冷たい空気を肺胞いっぱいにして白い息、しているみたい。
 
橋の下、お堀の中、死体が浮いていたらどうしよう。見たこともない光景の残像が成仏しない。その場に立ち続けるのは難しいから、今日もまた通過する。またね、と言って通過する。
 
 


2022年3月12日(土)
「冬と春のあいだ」
 
 
冬の層を一枚一枚、うすく剥がしていくと、遠くにうっすら見えてくるのは戦争のふた文字だった。先をさらに掻き分け凝らしてみると、辺りには春になる手前の言葉が小さく膨らんでいて、透明な呼気や、点滅する青い影、水気をたっぷり含んだ天然色がせわしく発露している最中であったのだ。戦争のふた文字は灰色の装いをしながら、そこらにある柔らかさやひかりの気配を少しずつ飲み込み、周りの空気にめり込むように拡大し、薄暗い質量を足していくので、まるで己の無限の強さを誇示しているかのようだった。何事かと問うてみても、シンとしているばかりだったので、戦争のふた文字めがけて小石を投げてみる。カツンと音を立て転がりゆく小石に目をやっていると、わずかな空気の揺れに反響するかのように遠くの国の悲鳴が聞こえてきた。
 
 
詩のことばを持って生まれたかった。
 
 
詩のことばを持って生まれていれば、「戦争」の上にそっと撫でるような粉雪を降りかぶせ、どこまでも白くなだらかな雪景色をつくることができたかもしれなかった。詩のことばを持って生まれていれば、「戦争」の裾にマッチで擦った火を灯し、燃え上がる炎を隣の人々と手を取って眺めることができたかもしれなかった。詩のことばを持って生まれていれば、「戦争」によって引き延ばされた数々の雄弁を端から順に折りたたんでいくことができたかもしれなかった。詩のことばを持って生まれていれば、「戦争」を吹きすさぶ春の嵐の塵のひとつにして、夢の中の物語にしてしまうことさえもできたかもしれなかった。詩のことばを持って生まれていれば。
 
 


2022年2月25日(金)
「戦争という言葉に思う」
 
年末年始をすっかり通り越して、気がつけばもうすでに3月にたどり着こうとしていて、毎日が次の毎日へとなだらかに溶けていっては消えてしまうような日々がまだまだ続いている。そしてこうやって毎日毎日がいつの間にかという言葉を連ねるたびに、消しゴムのような味のないものを噛み続けているような虚しい心地にもなるのだった。1日という、更にはもっと細かな時間の単位を「毎日」という大きな流れに簡単に束ねてしまえるという、その無頓着さよ…!

夜、寝る前にtwitterを開いてみたら「戦争がはじまりました」と在日ウクライナ大使館の公式アカウントがツイートしているのを目にした。そのツイートにはすでに何万ものいいねやリツートなどのリプライがついていて、日本の多くの人がその言葉が表す状況に関心を示していた。ウクライナとロシアの軍事的な緊張が続いているというのは日々のラジオのニュースで何となくは知っていたけれど、まさか戦争なんて起こるはずがないと誰もが思うそんなようなことを思っていた私もまた、世界中の多くの人と同じように、画面に引きずり込まれるようにTwitterのタイムラインをスクロールしていた。「戦争」が「始まった」という文面のまがまがしさに、時空がぱりっと割れたような、ここが自分の部屋で無いような、異次元に連れて行かれたような心地がした。ひどく神経が尖って膨らみ続けていった。そして自分が産まれてこのかた、浴びたことのないその言葉の配列に、新鮮に驚き、恐怖を感じたとともに、これはうっすらだけれども、自分の体のどこかの一部として、ずっと遠い昔からあった何かのような気もするのだった。既知と未知がないまぜになった心許なさが侵入してきて、めまいのようなふらつきが身体の中でこだまする。戦争を知らない私が、知っているだなんておかしな話だけれど、でもきっと、戦争を知らない世代にとっても戦争は傷であって、知らない世代なりの傷つきがあり、その経験は体にデフォルトで埋め込まれているのだと思う。
twitterのタイムラインには、「戦争反対」という言葉で溢れていた。同じように「戦争反対」なんて唱えても意味がないという冷笑も多く溢れているようだった。様々な人の様々な饒舌が転がり続けていた。私を含め、人は引いて見でバランスを保つことそれ自体がアイデンティティであるかのように、自らの位置を見定め、見計っている。「戦争反対」があって良かった。戦争に太刀打ちできる言葉は平和よりもやはり「戦争反対」なのだと思う。
 
 


2021年12月10日(金)
「冬に咲く」
 
 
無限の可能性に縛られるという大きな矛盾が多くの人の今を傷つけている。決して余らせたくない身体を焼きつくし、最期には軽快な灰となって我が身を弔いたいのです。ナイーヴを呪文のように唱えながら春の夢を見る、朝は、骨身に染みる冷気だけれど身体の末端器官は安堵してる。人間の成分は温かさではなく冷たさにあるのではないか、と微かな血の気が通過してまた安堵。寂しさなんてリズムに任せてしまえばいいのだよ、と放つ言葉は天を仰ぐように跳ね返って、走り出したい景色はやっぱり冬の東京だった。選ばれなかったものの代償がのちの自分を脅かすことなどない。諦めや倦怠が人生に芳醇な香りを漂わせ、墓のような静謐な佇まいで咲くものもあるのだし、その傍ら、謙虚とは程遠い野心を震わせて、立てた爪の痕跡をまじまじと眺めることだってできる。着地のない身体で舞ってゆくだけ。
 
 


2021年11月18日(木)
「柔らかな肌、戦争」
 
 
戦争がわたくしごとのように空から降ってきて、硬質な鉄の塊が柔らかな肌に接地した瞬間大きく発光した。豆腐の腹をなでる手つきでまぶたに触れてみると、白く生あたたかなぬくみが底の方から湧いてきて、朝の目覚めへと招集される、今、ここだよ。重たい倦怠を追いやろうと振り上げた白い手は、血も汗も涙も握っておらず、夏の光と等価になってしばらくの間宙に浮いていた。寝起きのスマートフォンを、タッチ、してラジオを起動させると8月6日という日付がアナウンサーの平たい声によって連呼されている。
 
戦争がわからない
 
他人の無表情を並べたような台詞が虚しく時代を覆う前に、毎年必ず8月はやってきて辛うじて形状を保っている、ね、戦争。わたしはいつまでわからない、を言えるのだろう。
 
 


 2021年9月30日(木)
「祖母の命日」
 
 
秋だ。秋は、立ち止まっていても歩いていても、向こうからやってくるものの様々が濃密でたまらない気持ちになる。
土や草や晴れてる日の冷たい匂いとか、何重にも重なっている虫の声とか。薄手の毛布に包まっていたい想いなんかも狭い部屋を充分に満たしていて、もう既にまぎれもない秋の中にいるのだな、と思うのでした。この大好きな季節をどうにかして保存しておきたい、というのは毎年のように思っているのだけど、ぼんやりとやり過ごしているうちにいつも間にか秋は冬になって、冬は春に、春は夏になっていたりする。毎日が異なる装いで移り変わる季節を、たったの4つに区切るだなんてすこし乱暴なことのようにも思えるけど(厳密には暦はもっと細かく分かれている)秋という文字はなんとなく、秋の周辺にあるものを如実に表している気がするし、冬も春も夏もきっとそう。言葉それ自体が季節を運んでくるということはきっとある。
 
9月の初めは祖母の七回忌を家族で行う予定だったのだけど、例のコロナというやつで帰省することが出来なかった。
祖母が亡くなった日の朝は、わたしの誕生日の朝でもあったので、自分の誕生日というものに新たな意味が加わったのは、もう6年前のこと。身内の命日と誕生日の一致、というシンクロニティは結構よく聞く話だし、偶然といえば偶然だろうし、なんの因果があるかなんて全然わからないけれど、わたしにとってやっぱりその日は特別で、特別なものにしておきたい想いがあったので、このことをギフトとして受け取っていた。
6年たった今、この際立っていた1日は、角を無くして丸くなって、そこにあって当然なものとして365日の中にある。
今思えば、おばあちゃんがこの日を選んだことも、命日に家やお寺になぜか1匹の蝶がふわり迷い込んでくることも、家族や親戚がそれをおばあちゃんだね、と自然に共有する気持ちも、ただまあるく存在する事実。
幼い頃、人が死んだらどうなってしまうんだろうという恐怖にずっと囚われていた。それと同じくらいの分量で大切な人を亡くした時、自分のこころはどうなってしまうのだろう、ということを身に迫る危機として抱いていた。それを思うと夜も眠れなかった。大人になった今、考える体力も気力も少なくなって、頭の隅っこで考えることを放棄している節があるし、あの頃のようなクリアな感覚で死、というものを捉えることが難しくなっている。たとえば震災とか災害、理不尽な理由で突然失ったりしてしまったら、また何か違い想いがあるのだろうけれど、正直、自分ごととして想像が追いつかないのです。
最近では、LINEで母や叔母と祖母の話をして少し思い出す程度で、祖母のことを考える時間が圧倒的に少なくなってきた。きっとこれからはもっと自分の中で薄まってゆくのかもしれない。でも、たまに何かの拍子に思い出したり、誰かと語たり合ったりすることで、記憶の切れ端をだとって鮮明にその存在に辿り着くことができる、亡くなった人は、残された人の想起する力を引き出してくれる、そういう役割が、居なくなっても、いつまでもあるのかもしれないし、そうあって欲しいな。
でも、そう思えるのは、きっと自分が恵まれた人間関係にあるから思えることなのかもしれないけれど…トラウマ級に嫌な奴のことを、、同じようには思えないよね。
6年目。祖母の存在は自分の縁にいるような感覚だな、と最近は感じるのでした。額縁の縁。心の中に居る、とはなんか違う、縁取られていて、隅っこに気配を感じるような。この先は何を思うのでしょう。
 
 


 

 

 


 2021年8月10日(火)
「とんでもなく夏」
 
 
塵と埃の浮遊物が小さな水の粒などと集合して、ぼんやりと大きな群れを成して真っ青な空に浮かんでいるのが見えた。それはつまり無数に広がる雲のことであって、そのたゆまぬ水気の生成は、なんだか言葉みたいだなぁ。氷が溶け切ったドトールのアイスコーヒー水をストローで吸い上げながらふと思った。湧き上がっては、ふくらんで、ぶつかったり、すれ違ったり、くっついたり、離れたり。渦巻いて、すべてを円滑に運ぶめぐりとなり、幾度も形を変えながら、ぼやけて、ついには消えてしまったりするのだから、絶え間ないな、忙しないなぁ。空の上の大きな運動を頭の中でぐわぐわと膨らませながら、ひとつひとつの単語が結ばれていく瞬間を待ってみた。大気の呼吸が空の高いところからこちらの側まで降りて来て、透明な空気を振動させている、その波動が木々の葉一枚一枚をけたけたと鳴らし、硬い地面を蜃気楼のように左右に波打たせている、揺れている。それに重ねて、まっすぐに伸びた真夏の白い光線が街の暗部をためらいなく照らしだすので、のこりのわずかを残して、言葉の成分は一斉にきらきらと放たれるのだった。街にはさまざまなざわめきがあり、そのひとつひとつがあちらこちらに散らばって反響し合い、少しずつリズムが生まれていくのがわかった。道ゆく人々も自らのステップをつかみ出したのか、小刻みに揺れている。街が織りなす壮大なダンスの飛沫がガラス窓越し伝わってきて、とうに柔らかくなったわたしの頭に跳ね返って、きらりと光った。跳ねた光はすぐさま何処かに吸収されたかのごとく消えてしまって、その行方を追いたいようなこの物悲しい気持ちは、懐かしさというような言葉で形容できる何かだと思った。この感触を丁寧にそのまま取り出したい想いで、バッグに入っている水性ペンとノートをすかさず手に取り、いざ、としたところ、先程身体に全て吸収されて空になったアイスコーヒー水のグラスがあくせく汗をかいているような振る舞いでそこに佇んでいるので、あぁ、ここにも水気があるのね、大量の汗、池のよう、と気を散らせている間に、柔らかな立体としてあったあの感触、言葉の種ははらはらとほどけて、するりとまた何処へやらと消えてしまった。たった数秒でのことだった。そうであった、時間というのは、そこにあったリズムも色も形をもいとも簡単に持ち去り、粉粉にして、吹き飛ばして、散り散りにしてしまうのだから、それはそれはとても残酷で、ちょっと待ってくれというようなこちら側の都合や保留を決して許してくれないのであった。ガラス窓の向こうに目をやると、先程まで踊り出して鮮やかにあった街並みは、いつものような平凡さを取り戻し、ゆっくりと流れているのだけど、ざわめきの余韻が細部に残っているようで、少しだけ光って見えた。一番近い木々が優しく揺れていて、風の音が聞こえてくるかのようで、漂白されてしまう前の蟬の歌も聞こえだし、耳をすませてみれば、夏はすぐに過ぎていってしまうのだから決して立ち止まってはいけないよ、と言ってくれているような気がした。
 
 


 
 

 

 


2020年12月23日(水)
「夜の接地」
 
 
まぶたが沈む夕景、目に映るすべての境い目が曖昧さをあざやかに通り抜けて、すべての色を宿した黒へと帰着するまで待って。まぶたは束の間の安息を得ることで明日へと生きながらえたい。午前0時の幽霊みたいな白いカーテンが浮かぶ窓辺からは、12月のひんやりと、葬儀屋の電飾掲示板の灯りのぼんやりが、素知らぬ顔してゆらりと漂ってきては静かに滲んでいる。それらは夜のまぶたにもそっと降り注がれているのだけど、決して夜の眠りを阻害することはない。質量をもたない希薄さが、優しさであるということもある。夜のまぶたは色彩からの開放を嬉々として躍り続ける。ここでは昼間の中にある、脅迫めいた見ることへの要求が押し迫ってくることはない。ひらひらと舞うことで少しずつ火照り、熱を帯びていくこの空間では、ほのかに骨の予感がする。小さく燃える呼気がひとつふたつと増えるたび、骨の予感は濃密になり、次第に大きく膨れ上がって完璧な黒を裂くように、白い粉がこんもりと溢れ上がって宙を舞った。散り散りとなった完璧な白の欠片が沈黙に向かって降りてきて、そしてそれは、わたしの知る風景であった。
 
 
 
 


 2020年11月28日(土)
「」
 
毎日毎日が昼の明るさと夜の暗さを往復するばかり。私は毎日毎日明るいと暗いの真ん中にいるのだから、私自身が大きな時間の流れの中にあるひとつの瞬きであるかのようだね。ひかりの。明滅の。夜になれば昼の中にあった大きな白い光が思い出され、朝になれば昨日の夜の中にあった暗やみとそこに浮かぶ小さな光の数々が思い出されるように、前の時間にあった光はぐんぐんと引き延ばされて、最終地点ではない今に追いつくようにして、日々繰り返し発光を続けてゆくのです。まるでまぶたの外側からやってきたもの全てが私の身体の内側へと丸まっていくものとして、存在しているのだと示しているみたいにね。
 
 


 

 

 


2020年11月2日(月)
「かんぺきなおっぱい」
 
 
銭湯とか温泉とか、大きな湯が張ってあるところが好きなので今日も隣駅にあるあの銭湯に行ってきた。その銭湯は都内のなかでもわりと有名であるらしく、いつ行ってもひっきりなしに人が出入りしている。
あつあつの湯に浸かりながら、高い天井にある汚れをいくつか確認し、自分の手の甲と指のシワを眺め、タイルに貼ってある広告物を声にならない声で読み、湯水に浮かぶ泡をいくつか数え、入れ替わるひとたちを隈なくウォッチングしたりする。
長い髪を洗う若い女性のしぐさだとか、褐色の肌に刺青が入ったギャル風お姉さんの不機嫌そうな表情だとか、交互浴にいそしむおば様方の熱気と冷気だとか、楽しそうにはしゃげる子供の弾ける声だとか、それらのひとつぶひとつぶが、妙に強い輪郭を放ち、映画の中のワンシーンみたいだ。世界がそこで完成されているのだなぁとなんだか訳もわからず泣けてくる。
そしてそこには、たくさんのおっぱいがある。時間の厚みが刻まれたシワシワなもの、酒饅頭のような真っ白ふっくらなもの、起伏なくつるりんとした軽やかなもの、色も形を千差万別。内包されている時間も違うのだ。じっくり見るのも申し訳ないのでチラチラと見させてもらいながらも唐突に、みなのそれが完璧であって、この完璧なおっぱいが集まる銭湯という場所はなんて素敵な処なのだろうという想いが巡るのだった。それと同時にも、それらおっぱいの向こうには、わたしの知らない、知り得ない誰かの想いや生活や人生が含まれていて(私にはそう思えてしまって)、その見えなさや果てしなさに対して、また遠い想いがやってきていることも自分の中で静かに確かめるのだった。
 
 


 
   


 


2020年7月26日(日)
「」
 
 
遠いもの同士を引き寄せた時にある矛盾、葛藤、偶然、脈略のない繋がり、必然性、ただ「ある」という純粋な経験(これは2つ以上のものの関係によって生まれている状態、力が均等になっている状態)、狭間という経験
「詩」があるという事はこのような運動が行われている状態のことをいう事なのかもしれない。作品経験は詩的経験
 水、瞬き、緑、夕焼け、今
 
 


  2020年7月21日(火)
「最近のせいめいの話」
 
 
子供の貧困とか、自殺とか、いのちの選別とか、ショッキングな言葉が最近よく流れてくるので、その言葉の強度に改めてびっくりしてしまうんだけど、それにしても、「いのちの選別」て言うの、無償にむかつくな。声にして発音してみたら、「せんべつ」という響きがあまりにも冷たく、ナイフのように鋭く痛いので、なんだかとても悔しい想いがするのだった。だけど、いつの日か世の中の負の連鎖によって、そのようなムードが臨界に達し、これまで大切にしていたものが反転してしまったとしたら、自分がそれを行う可能性も行われる可能性も十分にあり得る、そんな時代に生きているということに対して自覚的でありたいし、常に問うていたいし、抗っていたい。できればずっと優しくありたい。
 
先日人気若手俳優の自殺というトピックが目に入ってきて「嘘…?」と思わず声に出していて、気がつけば関連ニュースをいくつかスクロールしていた。どうやら嘘ではなく本当ということがわかり、胸がきゅっと痛くて苦しいのだけど、なんでこんな想いをわたしがするのだ、、と、その理由を言葉にできなくて更に暗澹たる気持ちになる。
 
コロナウイルス感染症によって、日本では死者が1000人に到達したというニュースがあって、その多いのか少ないのか見当もつかない、積み上がったその数字を見て、亡くなった人たち、ひとりひとりを想ってみようとしたのだけど、それらの人たちの名前すら知らないので、当たり前に上手に想像することができず、そこまでとなってしまった。
ただわかるのは、その人たちはこの世に生まれ落ちて、だれかの手によって育てられ、学校に通い、あらゆる人間関係の中で、成長し、成人して、仕事をして、お金を得て、結婚して、家族を作り、それぞれの人生があったということ。学校に通わなくても、仕事をしてなくても、結婚をしていなくても、家族がいなくても、それぞれがみずから選んだり選ばされてしまった人生があった、ということ。遠く及ばない想像が1000あった。それだけはわかる。
 
今年に入って特に世の中が嫌な感じなので、気がつけば逃げるようにして、その辺に生えてる草花を眺めたり、意識的に花屋に行って部屋に花を絶やさないようにしていた。ベランダ菜園も始めて今では10種のハーブが育っている。(かわいい)植物を見て、心が癒えたり、深く息を付けたりするのは、緑色だから、という事にふと気がついた。そもそもなぜ緑色なのだろうという、子供のような目で見る。ゲーテの色彩論からすると、光のすぐそばにある「黄」という色と、闇に近い「青」という色を最も純粋な状態で均等を保つように混合すると「緑」が生まれる。
緑色は光と闇の間の色、その両者の均等が保たれた時に明滅する生命の色ということになる。こうやって生存が危ぶまれる時代だからこそ、人は、連綿と繋がれてきたこの世のことわり(自然)のようなものに、無意識に触れたくなるのかなぁ。間にある、途中の、過程の色、緑色。ここにも「詩」が隠されていたのか、と想うと嬉しくなる。
 
4月に会うはずだった県外の親友から連絡が来て、新しい生命を授かったという連絡をいただいた。私は彼女の存在に触れるといつもなぜか泣けた。出会いの当初弱々しくあった彼女が、作品を作るごとに、自分の言葉を獲得し、それを優しく他者に手渡す事のできる、凛とした優しさと強さを兼ね備えた女性に、立派なアーティストになっていた。その過程がとても美しかった。母になるんだなぁと思うとやっぱりまた泣けた。心の水が溜まっている場所に光が射してきらきらしているみたいな、そんな気持ちになる。
 
 


 2020年7月15日(水)
「風景を見る事は孤独なこと」
 
 
夕刻時、茜色の街並みと空の下で、突然に懐かしい想いをしたり
しんと静かな住宅地から見た無限の星空に、遠い時代 先人の心を想うことができたり。
 
今、こうして目の前広がる景色を、誰かと「同じ」ように共有したいと願っても、それは絶対に不可能なことであることを知っている。その色は本当に同じ色なのかという事も、何をどう感じているのかという事も、何が想い出されているかという事も、どれだけ言葉を尽したとしても、どれだけディティールの詳細を語ったとしても、ある程度は想像力をもって理解できるのだとしても、それがどれだけ同じものだということを確かめる術は恐らくなく、完全な共有など何処にもないことがわかるそれは私の身体の独自性を示すことであり、また他人の身体もそうなのだということ。
 
ということを、今そのことを言ってみたけど、そのことは私の中の星の空の中にあるひとつみたいにただずっとそこにあって当たり前のものだった。
 
 
 


 


 
 

 
 

 
 

 


2020年4月7日(火)
「春の雪の日」
 
 
3/29(日)目覚めると、窓からひんやりとした外気が入ってきて、カーテンを開けたら、予報通りに雪が積もっていた。
この朝の白い景色との出会いの瞬間は、幾つになってもときめいてしまう。
そして真夜中のしんしんと降り続ける静けさを想像する。
朝食を済ませてから近所の大きな公園にカメラを持って散歩しに行った。
同じように外に出てきている人も何人か見かけた。
ちょうど桜が花開いてから2週目くらいの日で、散っている花やこれから咲こうとする花々が入り混じっていた。
この日は曇天で空と桜と雪のコントラストが少なく、眼に映る景色が白く平らで、明るい。
3月末の、生暖かく冷たい発光だった。
桜と雪が同時期に見られるなんて素敵だなぁとうっとりしながらいくらか写真を撮って、またしばらく歩いた。
 
3/30(月)朝、志村けんさんが新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなったというニュースが飛び込んできた。
あまりにも突然で信じがたい。
ついこの間まで、元気そうにテレビに映っていた人が突然、突然死んでしまうのか、という現実に思考が停止してしまう。
昨日の、雪の、静かな時間の中で、志村さんはひとりで息を引き取ったのだ、というその孤独な時間を想った。
春の雪と志村さんの死が結びついて、私の中で記憶されることとなった。
こうやって人の死は何かにそっと結びつけられてしまう。
 
死の報道から一週間、なぜか私は毎晩、涙が止まらない。
特段ファンだったということでもないのに、なぜですか。
笑顔が素敵な志村けんさん、どうぞ安らかにお眠りください。
 
 
 
 

 

 
 
 


 2019年9月4日(水)
「花器」
 
 
友人が送ってくれたガラスの花器。
うれしい、かわいい。
 
 
 

 

 
 


 2019年8月31日(土)
「いま、ここ…」
 
 
詩的なものとは何か?という漠然とした問いは自分の中の身体の片隅に置いていて、いずれその核に近づけたらいいなぁと思っている。
わたしが妄想する、詩が発生する瞬間というのは、ある状態がある別の状態に移行する時空間そのもののことや、ある対立概念が接触したり、ふいに均等になる瞬間にあるのではないかということ。
先日、自転車で団地を爆走していたら、夕暮れ時のなんでもない街の風景を見てなんだかわからないけど、こみ上げてくるものがあった。少しだけ泣いた。
あぁ…こういう感覚はひさしぶりだと。
夕方から夜に移行する時間、夜から朝方に移行する時間、そのあわい時間。閉じたまぶたを開こうとしている、その薄目で見る世界。均等を保とうとしている、ふるえる時間。
なんだかわからないけど、わからなさのたしかさがたしかに日常の隙間にひょいっとあって、その瞬間にはいつも「あわい時空間」がある気がする。
その瞬間のなかにきっと「いま、ここ」がある。わたしの詩情がある。
いま、ここというふるえる瞬間、その揺らぎのなかに立つために、やるべきこと…
 
 


 2019年8月17日(土)
「心象風景について、少し」
 
 
今年の6月、東村山市にある国立ハンセン資料館での企画展「キャンバスに集う〜菊池恵楓園・金陽会絵画展」を観に行った際に、特に良い絵だなぁと思った絵があった。森繁美さんの「根子岳」という風景画だ。
この絵にはある逸話があるらしい。
当時、同じ金陽会の吉山安彦さん(現・金陽会理事長で、唯一の現役画家)が一緒にスケッチに行った際に、なかなか絵を描き始めない森さんになぜ描かないのか?と訪ねた。そこで森さんは「ここ、ここ」(指で頭を指して「全て頭に入っている」という意味)と答えた。そして、菊池恵楓園に戻った際に、記憶を頼りに描いたその山の絵の色づかいを見て、吉山さんは真似できないと脱帽したとのことだ。
 
かの有名な放浪の画家・山下清の代表作である長岡花火や旅先の風景の貼絵も現地で制作したことはなく、実家や在籍していた八幡学園に帰ってから、記憶を頼りに制作する。あくまでも、旅や花火そのものを楽しむスタンス。
アンリルソーも心象風景を、日本では東山魁夷など
 
心象風景ってなんだろう?あまりにも知識がない。
 
関係あるかわからないけど、いつも何度でも思うのが、なぜ自分の中に迫ってくる風景というのは遅れてやってくるのだろう?ということ。「真っ只中」でなく、「その瞬間」ではなく、なぜ「後から」なのか…遅延が発生するのか。
 
 


2019年8月12日(月)
「お墓からの風景について」
 
 
お盆に帰省した際に、母と父と兄と祖母の故郷の南魚沼へ親戚参りに行った。
祖母の実家は南魚沼市の大桑原という地区で、山と田んぼに囲まれた、ザ・新潟のようなところだ。
大桑原に行く途中で、かねてから付き合いのある旧小出町(現魚沼市)のお寺さんにも立ち寄った。
そのお寺さんのすぐ近くには20年前くらいまでは渡邉家のお墓があってお盆やお彼岸などは家族みんなでよくお墓参りに行っていた。
20年前というのも、祖母が生前、そのお墓を家の近くに移したいという強い希望で小出町から今の実家近くに移した。なので今はその墓地にはうちのお墓はない。
その日は、なんとなく、昔のお墓があったあの場所に行ってみたいねぇと母と話していたので、ついでに立ち寄ってみた。本当にすっかりと20年ぶりくらいだった。
わたしは幼い頃、この墓地から見える景観を気に入っていて、年に数回家族と来るということをとても楽しみにしていた。
遠くには小出町の街が小さく広がっていて、空も広く、風通しの良い、とても気持ちの良い場所だ。
そしてこの墓地の下には祖母の大好きな祖父が眠っている…そういうイメージの優しい場所だった。
このときからお墓とは、亡くなっただれかを想うための空間であるとともに、そのだれかからこちら側へ向けて眼差されているような…そんな不思議な空間なのだと、子供ながらの感覚として感じていたように思う。(仏壇もそうかもしれない)
 
昔あったそのお墓の場所には、もうとっくに別の人のお墓が入っているでしょう…と思っていたら、なんとその場所だけすっぽり空いていたのだった。他は全部埋まっているのに。20年もの間、空白だったのだ。
それを見て、母は、ここがまだ空いているなんて、戻ってこいと言われているみたいだね、わたしが死んだらここに埋まりたい…とぼそりと言っていた。
本気なのかはわからないけど、わかる、わたしも…と少しだけ思った。あの時の、お墓を移動する時の寂しい気持ちが蘇ってきた。
自分が死んだ後、自分の身体がそこにないのにもかかわらず、理想の風景を求めてしまう、そのこころは何だろう。
自分の死を神の視点で見ている、不思議な光景でもある。
 
 
 


 
 

 
 
 


2019年7月28日(日)
「 」
 
 
今住んでいる家にテレビが無いので、わたしが情報を得るほとんどがラジオ、もしくはTwitterになる。
twitterの凄さは、手軽に、いわば、社会の多様な人の反応や意見に触れることができることだ。(それもごく一部で偏っている可能性もある)
そして、その中で自分とは異なる考えが無数にあることに改めて圧倒させられる。
 
最近では、特に無差別な痛ましい事件、権力・圧力問題など、さまざまな暴力が可視化されたニュースが自分のタイムラインにも止めどなく流れてくる。
人々の反応としては怒る人、悲しむ人、傷つく人、沈黙するしかないと声をひそめる人、色々な態度がそこにあった。
あまりにも圧倒的な暴力に対して、わたしも情報を追うことをやめられなくて、しばらくの間スマホの画面に没入していた。その時、はたと自分の身体の所在のなさに気がつく。twitter内の発言する人々の大きな声や強い感情の方に引っ張られてしまって、実際に被害遭われた方やその周辺の人々のことや被害を起こした人物の動機やそこにいたるまでの極限状況など、を想像することが抜け落ちていた。
最近、特に思う。この小さな画面に引っ張られると、世の中で起きている事件の向こう側にいる人々の生が抽象化されてしまう。事件ではなくても、人々の暮らしや生活、そこにあるたしかなものが、見えずらくなってしまう。わたしの場合だけれど・・・そのことが気になっている。
先日、友人がふいに「snsに居ないからって、居ないことになる。それが嫌なんだ」と言っていた。その言葉がなぜがずっと胸に残っている。
丁寧に足元の現実世界を見て、実感として得た誠実な言葉だと思った。
 
 


2019年5月12日(日)
「竹田の子守歌と森の風景」
 
 
幼いころ、夜眠る前に母は決まってある子守唄を歌ってくれていた。
「もりもいやがるぼんからさきにゃ…」という歌い出しから始まるこの歌は、
聞きなれない言葉と柔らかいメロディに、不思議と懐かしさのようなものを子供ながらに感じていた。
そして眠りに入る前のぼんやりとした頭に浮かびあがるのは、木々が生い茂る静かな森の風景であった。
この歌の風景は母から受けついだ記憶としてわたしの身体に今でも存在している。
そして、大人になりこの歌が被差別部落を歌っているという事実を知ることになる。
歌の背景にあるのは静かな森の風景などではなく、奉公で子守りをまかされている
女の子の悲しい守り小唄の情景だった。
子守の「もり」という単語を「forest」の森と勘違いしていたのだ。
このイメージのずれは、わたしの知らない時代の、土地の、
知らない人の記憶とわたし自身の個人的な記憶を緩やかに結ぶ余韻となって、
ひとつの真実として、わたしの中に確かに立ち上がることになる。
このただの勘違いから立ち上がった風景のつながりはなんとなく、
無視できないことだなぁと最近考えている。いずれ追求できたらなぁ。
 
 
 


 
 


2019年4月22日(月)
「日記はじめます」
 

ふいに日記を書きたくなりました。亡くなった祖母のことと、
その周辺にある心の事で書き残しておきたいことがぽつぽつとあったので、記録として。
 続けることがあんまり得意でないわたしだけど、後から見返すかもわからないけど、
祖母が生前、自身が大切にしていた唄を人知れず録りためていたことのように、
自分の大切にしていることを少しでも残していければ。

日々の生活の中で埋もれてしまわないように。
より自分の身体を信頼できるように。
マイペースに、ゆっくりと。