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「岸壁の父母 No.3 渡邉ひろ子個展 隣人について-その訪問の心得」
video / installation / mixed media  - 2016
HIGURE 17-15 cas
 
 
 
 
幼いころ、死、というものがとてつもなく怖かった。
夜電気を消して布団にもぐると、暗闇のなかでふいに、 死、というものが頭をよぎる。
 
死んだ後はどこへ行くのか。
あの世というものはあるのか。
自分自身が消えてなくなる、ということは一体どういうことなのか。
 
自分の死は自分では体験できないが故に、生きている間はそのことをただ漠然と考えることしかできない。
死んだ後はこの考えるわたしの意識そのものがなくなってしまうのだから、ずっとわからない。
つまり「自分の死」はずっとわからないのだ。
 
では、自分の死ではなく、「他人の死」はわかるのか?
この「他人の死」それも「身近な存在の死」の恐怖は自分のそれと同じくらい、 いやそれ以上に切実な問題としてあった。
 
大切な人が死んでしまった時、わたしは何を思うのか。
どれほどに苦しいのか。
どう受け止めるのか。
 
「その時」のことをイメージしてみてはひとしきり泣く夜もあった。
そしてこのイメージの対象は常に祖母であり続けた。
 
 
本展は幼い頃に抱いていたこの「身近な存在の死」の恐怖とその問いに対してのひとつの応答ともいえる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
installation view
 
 
唄日記 2016年3月(1h45min-loop)
video
 
 
 
祖母の四十九日後の遺品整理の際に、生前祖母が採り溜めていた 数十年分の カセットテープが発見された。
そのカセットテープには、日本各地の民謡や演歌、ポピュラーソングの 様々な唄が祖母の唄声によって、吹き込まれていた。
長い年月をかけて、繰り返し同じ曲を唄う彼女の唄への愛着と、 家族に決してその姿を見せなかった控えめな人柄が静かに浮かび上がった。

わたしは、この祖母の遺した唄を身体化させる為に、i phoneに入れて、
その声を頼りに日々何度も繰り返し口ずさんだ。
そして、身体に定着した唄を録音し、祖母の唄声と重ねた。
亡き声をなぞりながら、亡き人に接触しようとしたこの試みは、 結果的にわたし自身の喪の作業でもあった。 
 
奇しくも祖母の亡くなった日はわたしの27年目の誕生日の朝であった。
そして、その日の朝に見た上野駅から長岡駅までの新幹線の車窓の風景をふたたびなぞった。
 
 
 
 
「唄日記 2016年3月」プレイリスト
磯節
小諸馬子唄
江差追分
岩室甚句
木更津甚句
広大寺
八木節
安木節
伊勢音頭
木曽節
船方節(※船方さんよ)
大漁節
ひえつき節
安里屋ユンタ
  
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
photo by Takayoshi Susaki
 
 
 
 
【寄稿】
 
他者との境界の溶解  能勢陽子(豊田市美術館学芸員)
2017年「岸壁の父母」掲載
 
声の震えの感触 櫻井拓(編集者)
2017年「岸壁の父母」掲載